嘘日記。

おおむね嘘を書いている。

9/15

おおむね嘘の日記を書く。

本当のことを書くのが苦手なのだ。

 

ひょんなことから、花粉症治療のために通っているアレルギー内科の医師が数年前のイグ・ノーベル賞の受賞者だと知った。びっくり仰天である。

月に1回通っているクリニックにはそんな情報は一切出されていなかったし、医師本人も看護師や事務担当のスタッフも一度もそんな話をしたことがない。クリニックの壁には長々と「当院の治療方針と考え方の礎」が書かれ、クリニックオリジナルグッズであるストレスフリーな子供向け肌着などが展示販売されているだけだ。

わたしなら毎日「わたしこそが、あのイグ・ノーベル賞を受賞した者なんですよ」と大声で人に言ってまわるのにな。あの医師は変わり者なのだ。

 

今日はアレルゲンの検査をする。

医師が説明をしながら、わたしの腕に1滴ずつスギやヒノキのエキスを落としていく。

話している間も一切医師はわたしの目を見ない。

彼はアスペルガー症候群の気があり、人の目を見て話すのは得手でないのだ。

「センセイ、イグ・ノーベル賞を受賞されていたんですね」

わたしは軽い感じで尋ねる。白髪に覆われた医師の耳が一瞬ぴくりと動くが、やはりこちらを見ることはない。

「そうです。あの研究にはのべ300人の被験者に協力してもらい150回以上実験を行い論文にするまでに3年かかりました。アレルギーの患者さんにとって少しでも朗報を届けられたならよかったと思っております」

以上の回答を医師は一度もブレスを挟まず音速の速さで述べた。こんなに医師がたくさんの単語を発してくれたのは、数年にわたる診察の中で初めてだったので、わたしは嬉しくなってまた言った。

イグ・ノーベル賞って本当にすごいですよね。世界に認められる研究をなさったんですよね。イグ・ノーベル賞はここ何年も日本人が連続で受賞しているって聞いていたんですが、まさかセンセイがその受賞者のお一人だったなんて。クリニックにイグ・ノーベル賞を取ったっていう宣伝はなさらないんですか?」

興奮して喋り終えると、医師の横顔がふるふる震えているのが目に入った。気付けばわたしの腕にアレルゲン検査の液体がぽとぽとと何滴もこぼれ落ちている。

「い、イグ、イグ、イグイグギウ」

白髪の中の医師のシミの浮いた耳がザワザワと震え、浅黒い鼻がにょきにょきと前方に向かって伸びていった。白髪は一度色を失ってから急に毛根にエネルギーが注入されたように勢いよく鮮やかな色を帯びて全方向に伸び始め、いつの間にかそれは体毛ではなく鱗のような硬さを持つ皮膚となって医師の全身を覆った。細い目の中からしたたかな眼光が覗く、白衣を着たカラフルなイグアナの姿がそこにあった。

「あらあらあら、先生、また変わっちゃって。はいステロイド打ちますからね」

後ろからこのクリニックで一番ベテランの看護師が現れて、特にもの珍しくもないという風に先ほどまで医師であった生き物に近づいて前足に触った。イグアナは鼻腔からシューっと息を吐きながら、おとなしくされるがままになっている。

「ごめんなさいね、先生アレルギー持ちで、イグアナに近い響きの単語をひんぱんに聞くと体が変形しちゃうの。だから例の賞の授賞式も出席できなかったのよ」

こともなげに看護師は言って、イグアナの前足に太い注射を打った。イグアナは身じろぎもせず、目の前の壁の一点を見つめたままだった。

 

待合室で30分安静にして過ごしていると、腕の数箇所が腫れてきた。花粉やハウスダストや食物など、各種アレルゲンのうち、スギが最も腫れがひどく、ヒノキは軽いようだった。

「はい、春は気をつけて毎日薬を飲んでください。それからトマトの食べ過ぎに注意してください。スギと似たような症状を引き起こすことがあるの」

先程の看護師が手早く説明しながら会計処理をしてくれ、わたしは薬を受け取ってクリニックを後にした。

帰宅すると医師から留守電が入っており、驚かせてしまったこと、アレルゲン検査について充分な説明を出来なかったことなどを丁寧に詫びていた。

目を合わせるのは苦手だが、律儀な人なのだ。