嘘日記。

おおむね嘘を書いている。

9/18

おおむね嘘の日記を書く。

本当のことを書くのが苦手なのだ。

 

世界が未知の疫病に侵されてなかなか収束の糸口が見えないので、人々は毎日マスクをつけ顔を隠し人と距離を保って暮らしている。それでも人々は仕事をし、食事を取り、眠り、なんとか毎日をやりくりしなくてはならない。

今日は仕事で知人の事務所の経理作業をする。

タカサキさんの8歳の息子さんは太陽くんという。お父さん、つまりわたしの仕事相手のタカサキカオリさんの配偶者であるタカサキミツルさんがそう名付けた。タカサキミツル氏は、息子のことをサニーと呼ぶ。最近タカサキ家には家族が増えた。ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアのピースだ。こちらも命名者はミツルさんである。サニーとピース。ミツルさんはわりと世界観が明瞭な人間なのだ。

 

カオリさんは紅茶にこだわりがあるのでいつも新鮮な香りのするお茶を淹れてくれる。わたしが訪れるたびに熱烈な歓迎の意志を全身で表現してくれるピースが、足元でわたしの履いている靴下を引っ張っている。上手に足の指には触れないように、生地だけを噛んで引っ張り合いっこをするのが好きなのだ。温かいお茶を口に運びつつ、適当に力を加減しながら犬の遊びに付き合う。犬や猫を飼った経験がないので、どうしても肌を舐められた箇所はすぐさま水で流して石鹸で洗いたくなるし、毛がついているであろう衣服は帰宅後すぐに洗濯に出したい。家族として同居していれば、口移しで食べ物を食べさせたり、毛並みに鼻を埋めて匂いを一杯に吸い込むこともあるそうだが、人間としか暮らしたことがないのでちょっととんでもないです、と感じてしまう。紅茶とお菓子を食べてしまうまでは、ピースに手を舐められないよう慎重に避ける。

 

「先日もね、知り合いの看護師さんが転職して違う仕事をしたいって言うものだから、私と夫のいちおしの良い会社さんを紹介してあげたのね。そうしたら面接の日になんとその子、スニーカーで来ちゃって。そうしてお話しし始めて、どうして前の仕事は辞められたんですかってーーほら、看護師さんって言っても1年半しか働いていないから。理由を聞かれたのね。その子、あっけらかんと『彼氏と同棲したいからです』って。もうびっくりしちゃうわよね、面接官は友達じゃないのよ。それにもし入社したらどんな仕事をやって見たいですかっていう質問には、『なんでもいいです』って答えちゃったらしいのよね。悪気はないんだけど。みんな真面目にキャリアを積みたいと思って、人気のある会社だし、きちんと調べた上で来るでしょう。当たり前だけどその子不合格だったわ。病院で、しかも今回の新しいウイルスが流行り始めた後の就職だったから、仕事のマナーだったり何にも教わらずに1年半経っちゃったのね。それにしても良くないわよね、相手は仕事で、時間を割いて面接してくれているのに、どれでもいいって言ったり彼氏と同棲したいから退職したなんて…それって次も同じように、軽い感じでまた辞めるかもしれませんって面接官に宣言しているのと同じことよね。想像力が足りなさすぎるわよね。そんな人をリスクを冒して雇って1から教育したいと企業が考えるかしら、そういうことに考えが及ばないのよね…おかげで紹介した私と夫も、そこの人事部長さんからチクリと言われちゃって。夫は信用をひとつ失くしたって苦笑いよ。でも悪い子じゃないので、なんとか面倒見てあげたいわ。大学のキャリアセンターって、そういう初歩の初歩から教えて指摘してくれるところなのかしら?」

 

カオリさんは真面目で面倒見がよく、優しい。上場企業の役員秘書を勤めておられた経験があるので、電話の応対もとてもソフトな物腰で柔らかだ。

 

「ね、もちろん今までの人生でちゃんと勉強してこなかったのは彼女の落ち度だけれど、世の中がこんな状態だものね、きちんと今までの先輩や上司に育ててもらえなかったのよね。それもかわいそうだわ。全く迷惑なウイルスよね。彼女、同棲するからなんて言っているけど、本当は感染症の最前線で訳もわからないまま休みなく仕事をして、防護服着て毎日肺炎の患者さんたちに接するのが疲れちゃったのよ。そりゃあそうよ。本当に今の学生さんや若い人たちは、こんな妙なウイルス兵器に機会を奪われてかわいそうだわ」

 

ピースが床からロープのおもちゃを咥えてわたしの膝に乗せてくる。それを引っ張り合いっこしたいのだ。よし、よし、と手対口の綱引きに付き合う。

 

「だけどワクチンはね、抗体ができないから。普通のインフルエンザだったら、感染して治った人に100の抗体ができるとしたら、インフルエンザワクチンを打った人には60くらいの抗体ができるらしいのだけど、今回のウイルスはね、感染して治った人も、ワクチンを打った人も、どちらも抗体ができないのですって。だからね、副反応が残るだけなの。色々発表されている論文もね、ワクチンを作っている会社の息がかかった人が書いているものばかりだから。ダメなのよ。もう一つ別の会社がワクチンを売り出したでしょう、そこはね、ワクチンを作るのは今回のウイルスが初めてだっていうのよ。笑っちゃうわよね。そもそもね、今回のワクチンはすごく新しい技術を使っているのに、治験が始まってからあっという間に世界で打たれるようになったでしょう。それはね、おかしなことなのよ。十分に議論がなされていないの。そしてね、ワクチン会社の社長たちは自分たちが作ったワクチンを接種していないのよ。危険だってことがわかっているのね。そしてこのワクチンを作るのに莫大な寄付をしたのがね、名前は表に出てこないんだけどロックフェラー財団なの。彼らの思想は、人類は増えすぎちゃって大変だから、一部の人たちだけ残してあとは減らそうって考え方なのね。だからそのために今回のワクチンを作ったのよ。もしかして、すみれちゃん、もう接種した?…そう…体に、何か悪いことが起きないといいのだけど。不妊にもなるかもしれないから…幸運を祈っているわ」

 

カオリさんは上品な仕草で紅茶をすすった。

わたしも曖昧な微笑みを返したが、口角を上げきれなくてもマスクをしているから相手から見えることはないのだった。

視界のどこにも焦点をぴったり合わせないようにしながら、ピースのロープをぶらぶらと引っ張って犬との遊びに夢中になっているふりをした。